昭和51年09月05日 特別奉修委員



 教えを頂くと言う事は頂き方でいろいろ教えが変わって来るのです。出来るだけ大きく豊かに頂かなければいけない。例えば今日辺りの御理解を皆さん頂かれておって、どんな風に感じられるだろうかと思うけど。本当に信心は見やすいものだと。それにはおかげというものを切り離した、今日一日一日が立ち行けば良いと言う様な風に、説いて表現してありますけれども。
 そう説きながら実は金光様の信心は、こんな素晴らしいおかげを受けられると言う事を、もうずうっとお話がしてありますですね。だからこの辺のところが本当にあいまって、頂かれていかなければいけないと言う事ですね。もう実にシャープなおかげを、黒木さんの話とか、日田の中野さんの話なんか、よく織り込んであるのはね、そういうところです。だから金光教の信心の、いうなら独壇場ですし、取り次ぐ者取り次がれる者が、その頂き具合で大変おかげが変わってくる。
 昨日は神愛会で、熊本の富永先生が発表しておられるのを聞いてから、もうあぁた方はもうどげん大きくなるか分からんよと言うてから、言うた事だったですけれども、もう本当にこの合楽示現活動に参画させて頂くという願いを、熱心にさせて頂いて、最近実感として分かると言う事は、初めて合楽の信心の素晴らしさというか、金光教の信心の偉大さと言うものを、実感するという意味の事を、お話になっておられましたがね。あれはもう、世界のあらゆる宗教を抜いた表現だと言われますね。
 合楽示現という、いわゆる仏教で極楽なら極楽。キリスト教で言う天国なら天国と説くけれども、その極楽とか天国とかの、もう一つ超越したものだと言う事。もう本当に世界に讃として輝く宗教としての値打ちを、合楽の信心によって初めて分かったと言う事を言っておられるですね。私はそれを聞きながら、本当にただ合楽示現活動に参画する。ただこうやってお導きするという、そう言う様な事ではなくて、そのうあの合楽と言う事がいわゆる勿論あいよかけよと言うても、教祖のお言葉ではぴんと来なかった。
 けれども合楽示現と言う事になってきたら、ほんとに神と人とが喜び合う、神も助かる氏子も立ち行く、そういう例えばこうして天国に行くとか、こんな信心したら極楽に行くじゃなくて、極楽に行った時に、神様もこう一緒に極楽でありなさるという表現をですね。そのう私はあそこのとこだけは、また本当にみんなに聞いて頂きたいと思うくらいに、テープに確か取ってあるでしょうから。素晴らしい表現をなさいましたし、またそれがあの、富永先生の信心の実感であるところにです。
 もうあぁた方はどげん太るか分からんよち言うて、あの昨日私もそれを実感として、それを思いましたですね。頂き止め方が偉大です。だからね小さく頂いたらやっぱ小さくしか頂かれんです。だから大きく豊かにやっぱ教えが頂けたらね、修行もまた同じ様な事が言えると思うんですよね。小売よりもやっぱ卸売りの奉が大きい様にね。今日私が御神前で頂いた事は卸という字を書いて、そして後から行人偏をこう頂くんですね。御という字になりましょう。だからね卸売り的な言うなら信心を頂かなければね。
 あのう一切全ての事に御の字が付けられるという、実感は湧いてこんと言う事です。ただ小さい小売的なねその信心、ただおかげおかげで、いうならまぁ終始しておる。小さい受け止め方ではね、小売的な受け方では、あの口では御の字をここでは言っておるでしょう。一切の事に御の字を付けてとこう言っておる。その御の字が頂けるためには、その卸売りのね。大きな受け止め方いうなら。それになら行が伴うから、一切の事に御の字が付けられるようになるというお知らせを頂きました。
   どうぞ。